「新しい政治の流れを作る」をコンセプトに、政治家・玉木雄一郎が各界で活躍するゲストを迎え、約束事なく遠慮なく、本音で語る。第2回ゲストは、バラエティプロデューサーの角田陽一郎氏。長きにわたりTBSで人気バラエティ番組を手がけ、2016年にTBSを退社後独立。「バラエティ=色々やる」という、本来の意味でのプロデューサーとして活動する角田氏とともに、情報革命によって「フレームなき時代」となった今を踏まえ、政治と情報のあり方について語った。(前編)
角田陽一郎(かくた・よういちろう)
1970年千葉県生まれ。バラエティプロデューサー。94年東京大学文学部西洋史学科を卒業し、東京放送(TBSテレビ)に入社。『さんまのスーパーからくりTV』でディレクターに昇格し、さらにチーフディレクターとして『中居正広の金曜日のスマたちへ』を立ち上げるなど、数多くのバラエティ番組の制作を担当。2016年12月にTBSテレビ退社。明石家さんま氏、いとうせいこう氏、水道橋博士氏、キングコング西野亮廣氏などの人気芸能人や著名人と親交を持ち、現在も革新的なアイデアを基に、さまざまなビジネスを創造し続けている。近著に『13の未来地図 フレームなき時代の羅針盤』(ぴあ)、『運の技術 AI時代を生きる僕たちに必要なたった1つの武器』(あさ出版)などがある。
https://kakutayoichiro.themedia.jp
玉木雄一郎(たまき・ゆういちろう)
1969年香川県生まれ。国民民主党所属の衆院議員、国民民主党代表。東京大学法学部卒業後、1993年に大蔵省(現財務省)入省。1997年ハーバード大学ケネディスクール修了。2005年に財務省を退職、衆院選に出馬し落選。2009年に初当選し、現在4期目。
https://www.tamakinet.jp
■政治が身近にならないのはなぜか
──角田さんの著書『13の未来地図 フレームなき時代の羅針盤』では、人類史上、稀にみる「情報革命」によって、今までの社会で通用していた既存の慣習、ライフスタイル、教育、会社、政治、経済といった「様々な構造=フレーム」がことごとく変化していると書かれています。そこで今回は、「フレームなき今の政治、情報のあり方」について、お二人のお考えを伺いたいと思います。
角田: 僕はプロデューサーという肩書上、様々なジャンルの方とお目にかかることが多いのですが、政治家の方と会うのは格別緊張するんですよ。なんか怖そうで!
玉木: そうなんですか?
角田: えぇ。警察の方と会っても大丈夫だし、医者の方と会っても大丈夫だし、おそらくローマ法王とだって、「Nice to meet you」っていけるような気がするんですけど(笑)。政治家の方は緊張します。なので、そこに本質的な答えがあると思っていて。
玉木: なるほど。
角田: これだけ様々なジャンルの職業の方にお会いする僕のような人間でも、「政治家の方に会うとなると緊張する」ということが、僕が今日お聞きしたいと思ったテーマの一つでした。要は、「なぜ政治は身近にならないんですか?」ということなんですけれど。こんな僕ですら、政治家の方にお目にかかると萎縮してしまうのはなぜでしょうか。
玉木: 日頃から全国各地を回っていると、「玉木さんは怖い人だと思っていました」とよく言われるんですね。国会中継では安倍総理とよく論戦するのですが、「おかしいじゃないですか!」とガーっとなったところだけを切り取られて、その部分だけを報道番組で何度も放送されてしまう。例えば森友・加計問題などは、1時間のやりとりのうちの10分足らず。なのに、そこだけが使われる。その時の険しい表情や物言いが何十回、何百回もテレビで放送されると同時に、最近ではそれが加工されてさらにネットに上がってしまうから、「玉木雄一郎」で検索すると、とんでもない極悪人シリーズになってしまっている(苦笑)。
角田: これは、僕の仮説です。例えば僕がA社の車に乗っているとしますよね。するとA社の社員の方には、「今、乗っている車はいいですよ」って話したくなる。そしてB社の社長にも、A社の車のよさについて話をしてみたい。ところが、僕が仮に自民党を支持しているとすると、「国民民主党の人に会うのはまずいかなぁ」と遠慮してしまう気がするんです。逆も然りで、国民民主党を支持している人は、自民党の方には会うことを躊躇(ちゅうちょ)する気がするんですよ。
玉木: 深いですね。日本は少数の側に落ちることに対して、恐怖感が強いからではないでしょうか。
角田: 何となく分かります。
玉木: いじめもそうですが、勢力が均衡していれば問題はないけれど、少しでも勢力がずれて少数派になったとき、多数派が寄ってたかっていじめ倒す文化がある。少数側に属している場合、反対勢力と接触していることがバレてしまうと、「お前のところの公共事業には入札に入れてやらないぞ」となる。
角田: 仲間外れ的な流れになることを、日本人は一番恐れているということですね。
玉木: 村八分社会の縮図ですね。
角田: その象徴が日本人にとって政治が身近に感じられない根本原因じゃないでしょうか。
玉木: 『金田一耕助シリーズ』の『八つ墓村』じゃないですけれども、様々な古い因習を引きずっているのが、日本の政治の今の見え方なのかもしれません。
角田: ろうそくを付けて、「八つ墓村のたたりじゃ」って出てくる、あれですね(笑)。
■「選挙」というフレームの消失
角田: もうひとつ、質問させてください。民主主義という社会において、選挙というものは本当に正しい仕組みなのかなと、僕は少し疑念を持ってしまうんです。
アメリカの例で言えば、共和党のドナルド・トランプ氏が民主党のヒラリー・クリントン氏に大統領選で勝ちました。ギリギリの票で勝った、負けたは置いておいて、とりあえずトランプ氏が勝ちましたよね。ところが勝ったものの、アメリカ国民の半分ぐらいはトランプを支持していない。つまり、「トランプが勝つ」という選挙をやってしまったおかげで、国民半分ぐらい承認していないっていう状況を作ってしまった。「そういう民主主義って、果たして効率いいの?」と思えてしまうんですよ。
玉木: たしかに効率は悪いですね。
角田: 「みんなが支持しているあの人なら」という人を大統領においた方が、効率はいい気がするんですよね。でも選挙ということで、あえて敵を顕在化させてしまうのではないか、と。選挙というのは、今のようにネットやSNS、アプリのない時代だから通用していた仕組みですよね。
玉木: つまり選挙というのは、「間接民主主義」なんですね。
角田: ですよね。そこで、その間接民主主義に参加しない、つまり「選挙に参加しないと、政治にコミットしないよ」というような議論も、僕はもう古いような気がしていて。ネット時代の今は、あらゆる政策課題も「直接民主主義」で出来てしまう可能性がありますよね。ただ衆愚政治に陥る可能性はあるので、それがいいかどうかは別にして、ですが。
玉木: 技術的には可能ですね。
角田: 可能ですよね。そうすると、前述に「仲間外れを作る文化は、日本の悪しき因習」というお話がありましたけれども、それって意外に民主主義の代名詞である“政党政治”で行われてしまっているのではないかなと。明治維新後、大日本帝国憲法が作られた1890年から、むしろ過去の因習が顕在化してきたんじゃないでしょうか。僕は歴史の本も書いていることもあって、そんな風に思えてしまうんですよね。
玉木: 鋭いご指摘ですね。去年の衆議院選挙を振り返ってみても、まず有権者の半分ぐらいの人しか、選挙には行きませんでした。「選挙に行った人の約半数の票を取ったら議席の8割」という状況から「民意の反映とは何なのか」ということを考えると、少数の人の行動で権力体系が出来上がってしまい、「多数と思われるもの」が形成されて、それ以外の方は部外者になってしまう。
角田: 部外者というか、少数者がいじめられるというか。
玉木: えぇ。そうなってくると、政治というのはある種、「区別と分断のプロセス」という気がしますよね。
角田: 政党政治というもの、つまり「多数決に勝った政党が与党になるぞ」という仕組みも、仕組みから検討すればもう少し最適化できるのではと思いますね。
■イデオロギーからの脱却
玉木: 「イデオロギーでは、もう飯が食えなくなっている」と角田さんの著書にもありましたが、まさに僕もそう思います。
角田: 産業革命によって生まれた「資本主義」「社会主義」「民主主義」といった、「◯◯主義」という概念は、これからべつの概念にとってかわる、ということを書きました。拙著では、イデオロギーはユーモアという概念にとってかわるとしましたが。
玉木: 例えばカール・マルクスにしても何にしても、「◯◯主義」というイデオローグがあるとした場合、その内容はアプリオリに(経験的認識に先立って決まっている概念・論理として)受け入れますよね。「誰かがどこかで考えて、こうすべきだ」というように。
しかし、これだけ変化の激しい現代の情報社会では、ある事象が出てきたとき、イデオロギーはもう、かつてのような参考書的な存在ではなくなってしまった。ある問題について、「一番売れている参考書の、ここを見たら答えが書いてある」ということでは解決できない。もはや、イデオロギーで規定された前提、フレーム自体がどんどん変わってきてしまっているので、今は「頼るべき参考書がない時代」とも言える気がします。
角田: 百歩譲って、日本経済が今も「イケイケドンドン」で、「おやじ世代に教わったことをそのままやっていればすべてうまくいくんだぜ」という時代が続いているのであれば、参考書の解答にただ倣っていればいいと思うんですよ。ある意味、前例主義というか。
少し話が逸れますが、僕は今、あるアーティストのマネージメントやろうと思っていて、ある人にそのことを話したんですね。するとそのアーティストについて、「ここが良くない、あそこが良くない」と、いろいろ言われたんですね。「もっとこういう衣装を着せたほうがいい」とか、「もっとこんな音楽を聴かせたほうがいい」とか。でもそれをそのままアーティスト本人に伝えたら、へこむじゃないですか。
玉木: それはへこみますよね。
角田: そうすると僕はマネージメントとして何をやればいいのかというと、ただ褒めることしかできないんです。仮に、僕にアドバイスをした方の意見が正しかったとしても、それは「これまでの時代の売り出し方としては正しい」というだけで、SNSを使ったこれからの新しい売り出し方では、たとえ今までの正論でも当てはまらないかもしれない。僕はテレビを作っている人間ですが、「ヒットのセオリー」をすべて実践したとしても、ヒットしないということを数多く経験しました。『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS系列)、通称『逃げ恥』という2016年の恋愛ドラマがヒットしましたが、その要因はたくさんあったんですよ。「主演の星野源さんがかっこいい、新垣結衣さんが可愛い」とか、「脚本がいい」とか、「テーマ曲に合わせたダンスが良かった」とか。だからといって、それと全く同じようなドラマを作ったら、パクリと言われてヒットなんかしません。
ということは、僕らは前例なんてないものだからこそ、作品を生むんです。その作品がヒットするか、しないかなんていうことは分からない。そうすると作品を作る人を褒めることしか、もはや出来ないということに気付いたんです。
玉木: なるほど。われわれが仕事としてできるのは、前提が変わってしまった時代だからこそ、何かが起こったときに、イデオロギーに照らし合わせて正しいか間違っているかを決めつけたり、「それに反するヤツはけしからん」と責めたりするのではなく、そのときある全ての情報を持ち寄って、「最適な答えを出したんだ」という信頼を、国民との間で常に持ち続けることかなと思います。
角田: そうですね。最適化リモデルですよね。
■人生は「ドラマ」より「バラエティ」に近い
角田: 何となく、なのですが、選挙で「マニフェスト、マニフェスト」と言い出したあたりから、政治がどこかおかしくなったんじゃないかなと思っていて。つまりそれは、前例で作ったマニフェストなわけですからね。
玉木: 民主党は、2009年に政権交代しました。私は当時、「あれはいいマニフェストだった」と思ったのですが、リーマンショックの後遺症真っただ中にいたあの時のことを広く俯瞰(ふかん)して見ると、何はともあれ、純粋マクロ経済学的に言えば、財政拡張をしておいたほうが良かったんですよね。なので角田さんのご指摘は鋭いですね。
角田: ありがとうございます。
玉木: 「無駄が多いから削りましょう」という話にばかり注目したけれども、あのときはとにかくマクロ的に見れば財政を拡張したほうがよかったし、ある意味では借金をしてでも、子ども手当などをすべてやったほうが良かった。でも、その真っ只中にいると、どうしても政策立案時点とのギャップが生まれてしまいます。あのマニフェストを作ったのは、その前の参議院選挙の前で、リーマンショック前なんです。だから非常にいい、完璧なマニフェストを作ったにも関わらず、100年に一度ぐらいのリーマンショックが起こって、それをそのまま持って選挙に臨むことになってしまった。
角田: 完璧なマニフェストでも、状況が変わってしまったら意味がないですよね。
玉木: ええ。修正を加えなければいけないときに、まず変化に対するスピード感が遅れていた。世の中はつねに動いているから、選挙で約束したことも大事ですが、国民にとって今ベストなものは何か、柔軟に変えていく力も大事です。
角田: ところがそれやると、「政治家はまた前言を翻した」とか言われちゃうじゃないですか。だから、「変わることがマニフェストなんです」と言われたほうが、僕はまだ腑に落ちるといいますか。
玉木: なるほど。
角田: だって、そのときの状況を見なければ、正解なんて分からないですよね。それは人生も一緒だと思うんです。例えば人生というのは、よくドラマに例えられますよね。1話で恋人相手を見つけて、2話で振られたりして、3話でもう一回復活して、もう一回ライバルが登場して、最後に結婚するみたいな。そして特に女性の多くは、「結婚=ドラマの最終回」と思っているわけです。ところが結婚式というのは、現実社会では『渡る世間は鬼ばかり』の第1話なんですよ。その先、第10シリーズにもわたり、さらに特番まで延々と続くという嫁と姑のバトルの始まりなんです。
玉木: 血みどろの(笑)。
角田: そう、血みどろバトルの第1話なんです。だからドラマのように、「こんな夢を持とう」「こんな計画を立てよう」と言って、それがそのまま思い通りに最終回を迎える人生とか、もしかしたら計画通りに進む国家とかも、思い込みというか幻想なんだと想うのです。、ドラマというのは1クール3カ月という終わり=ゴールが当初から決まっている。視聴率が良ければ、「また第2シーズンやろう、一緒に」となる。悪かったら悪いで、「こんなドラマは二度とやるか」「とっとと次に移ろう」となる。どっちに転んでも「終わり」が気持ちがいいんですよ。ところがバラエティー番組の場合は、視聴率が良けりゃ20年、30年と続くんです。
玉木: たしかに、バラエティーはそうでしょうね。
角田: バラエティー番組は、不祥事が起こったり、視聴率が悪かったら終わります。そして視聴率が悪くなってくるとMC変更とか、レギュラータレントをクビにするとか、予算削減とか企画変更とか、まぁ嫌な思いをたくさんしてテコ入れして、それでもうまくいかずに終わりを迎えるわけです。そこで僕は、「人生ってバラエティーとドラマ、どちらに近いですか」とよく質問するんです。みんな「ドラマ」と答えるんですけども、明日死ぬかもしれないし、医療革命が起こって100年後まで生きてるかもしれない。ということは、人生はむしろ、いつ終わるかわからないバラエティー番組に近いんじゃないかなと。そうするとドラマのように、脚本を書いて計画を立てて人生を送るということよりも、僕らが日々バラエティー番組を作っているように人生を捉えた方がいいんじゃないかなと思いますね。バラエティーをどういうふうに作っているかというと、答えは非常にシンプルで、「日々頑張る」(笑)。2週間後のオンエアで何をやるかを、2週間前に決めているぐらいですからね。
玉木: なるほど(笑)。ライブ感があるんですね。